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April 2542004

 桜蘂散りつくづくと地べたなる

                           宮澤明寿

語は「桜蘂(さくらしべ)散る」で春。「桜蘂降る」に分類。桜の花が散ったあとで、萼(がく)に残った蘂が散って落ちること。我が家の近くでは、ちょうどいま、散っている最中だ。この現象に気がつくのは、散る様子が見えたからというよりも、そのあたりの「地べた」が赤くなっていることからである。まず赤くなっている地べたに気がついて、次に桜の木をちょっと仰いでみて納得する人が大半だろう。そして作者は、もう一度地べたに目を戻した。蘂の様子を見るためだが、いつしか「つくづくと」地べたのほうに見入っていたというのである。そうだ、これが地べたというものなんだ。と、ひとり感に入っている様子が、よく伝わってくる。こういうときでもないと、人が地べたをつくづくと手応えをもって感じるようなことはあるまい。これが落花の様子だと地べたよりも花びらのほうに目を奪われるが、地味な蕊ゆえに、こういうことが起きる。蕊が散ってくれたおかげで、作者は地べたを発見できたというわけだ。似たような体験をお持ちの方も、多いのではなかろうか。何でもないような発見ではあるが、当人にとってはとても大事なことだから、こう書き留めておく必要があった。その気持ちも、よくわかる。似たような体験といえば、私などは写真を撮っているときにしばしば感じる。ねらった被写体よりも、それこそ地べただとか水だとか、あるいは空であるとか。日頃気にも留めていないような物質や空間に、思いがけない魅力を覚えることがある。何故だろうか。おそらくは人間の目とは違い、カメラのレンズは被写体も周辺の事物もみな公平に捉えてしまうから、発見につながりやすいのだろう。逆に人間の目ははじめから公平じゃないので、掲句のように、発見までにはいささか手間取るのにちがいない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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